気持ちのサンドバッグ

気になったことを調べて、まとめたり意見を書いたりします。あくまで個人によるエッセイなので、事実関係の確認はご自身でお願いします。

信仰にそぐわない仕事は拒否していいのか?

職場における信仰の自由について

現在、俳優が信仰とそぐわない仕事をさせられたこと、劣悪な条件で働かされたことなどを理由に芸能事務所を退所したことが大きな論争を呼んでいます。これについて、全体主義同調圧力の強い日本では、「どうしても個人的な理由で仕事を投げ出すな」「無責任だ」という意見が優勢になってしまうと思います*1。しかし、世界中で多様性が脅かされつつある現在、宗教の問題を軽視するのは地球人として非常に無責任です。

 


断っておきますが、この記事の目的は彼女の信仰自体を擁護することではありません。広く信仰というものが軽視されている現状について書きたいのです。したがって、信仰の内容の是非は関係ありません。

 

 

 

信仰の重要性を考慮せよ

信仰の重さは考慮しなければなりません。例えば、日本には「寺社に入る時に、門を踏んではいけない」という信仰があります。でも、仮に踏んだとしても、神仏への反逆になるわけではないですよね? 一方で、ある宗教においては、ある特定の日に必ず休息をとらなければいけません。「ちょっとぐらいいいでしょう?」と上司に圧力をかけられて出社してしまえば、それは信仰を根底から覆す悪徳になりえます*2


このように、宗教には様々なレベルの禁忌があります。学校や職場で相手の信仰を傷つけないためには、その行為が相手の信仰においてどのような意味を持つのか考えなければなりません(もちろん、仕事上で寺社の門を踏まなければならないような状況はかなり限定されますが)。

 

個人にとっての信仰の意味

そもそもその人個人にとって宗教がどのような意味を持つのかも、十分に考慮されるべきでしょう。日本人の多くは、結婚式はキリスト教式、安産祈願は神道式、葬式は仏教式だと思います。無宗教とも言われますが、宗教を大切に思っていないだけで、ある種の宗教には属しているのです。


ここで問題になってくるのが、その人が他宗教にどこまで踏み入れるかです。「日本人の多く」であれば、寺に行こうが、神社に行こうが、教会に行こうが、問題ないでしょう。でも、厳格な宗教の信者であれば、「◯◯は私の神ではないので、拝むことはできない」というかもしれません。人によっては神社に入ることすら憚るかもしれません。このように、信仰心には個人差があります。他宗教の価値観を押し付けることは、多かれ少なかれ宗教を否定することです。宗教を否定することはその人の存在価値を否定することになりかねませんから、宗教に絡む行為には細心の注意が必要です。

 

宗教的理由について反論するな

宗教上の都合については、反論しないほうが身のためです。今回の騒動で多いと感じるのが、「信仰に反するのは仕方ないとしても、社会通念上、与えられた仕事は全うすべきだ」という意見です。こうした意見における多くの人の想定が「職務は宗教の価値観に先行する」だと考えられます。言い換えれば、「仕事なんだから個人の感情は持ち込むなよ」ということです。

 

衝突する信仰 1対多

でも、宗教という概念を持ち込むと、そうした考えもある種の信仰だと考えられませんか? つまり、「職務は宗教の価値観に先行する」という「社会通念」自体がその人の信仰だということです。その俳優にとって信仰に反し苦痛であるにもかかわらず、大多数の人の信仰によってそれを強制するのは、まさしく迫害です。


我々ができるのは、その人が安心して仕事や学業をするために相談や工夫をすることであって、その人を説得して仕事を強制することではありません。俳優の所属していた事務所も、俳優の信仰を理解して仕事を取ってくれば、このようなことにはならなかったのではないでしょうか? いずれにしても、社会通念という「全体の感情」を理由に、宗教を強く信じる個人を迫害するのは、褒められたことではありません。

 

どんな宗教でも宗教的理由は否定するな

ここで必ず出てくると思ったのが、社会に害を及ぼす宗教であれば、信仰を尊重しなくてよいのではないか、あるいは尊重すべきではないのではないか、という反論です。冒頭にもかきましたが、私は特定の宗教について肩入れしたいわけではないので、その宗教の信仰の是非についてはスキップさせてください。


ひとつだけ言えることは、水素水の効能を強く信じる人から水素水を取り上げたらどうなるかを考えてほしいということです。ある個人が水素水を信じないなら信じないでよいですが、水素水を信じる個人に「お前の信仰は間違っている。水素水は没収する」と言って水素水を取り上げるのは迫害です。その人の存在意義を否定することになりかねません。


あまり宗教っぽくないたとえでしたね。でも、これを「聖典を燃やす」に置き換えれば、宗教チックになってきます。「お前の信じる聖典は間違っている。だから、燃やす」と言うと、かなりまずい感じになります。他教徒であってもバチが当たりそうです。


喩えが少し冗長になってしまいましたが、どんな信仰であっても、信仰していると言う事実と想いは揺るぎないものだと言うことを理解しましょう。あなたがその人の宗教についてどう思うかは、宗教的配慮の可否とは切り離して考えてください。

 

日常に潜む差別を意識せよ

最後に、我々が当たり前だと信じているものの中には、宗教に関係することが多くあります。もしかしたら、あなたが今何気なく行っているその行為も誰かの価値に反するかもしれません。大切なのは、他者にそれを請わないこと、自分の信仰を否定されても屈しないことです。

*1:Yahoo!リアルタイム検索の感情分析では、2月14日12時現在、42%がその俳優についてネガティブな呟きをしています。ポジティブなイメージの言葉が信仰の名前に入っているので、実際はもう少し多くの人が彼女に対して否定的な考えを持っているのでしょう。

*2:事前に教会の許しを得れば問題ないようです。