気持ちのサンドバッグ

気になったことを調べて、まとめたり意見を書いたりします。あくまで個人によるエッセイなので、事実関係の確認はご自身でお願いします。

いい指導者ってなんだろう?〜栃木の雪崩を受けて〜

部活指導者に潜む熟練の罠

栃木で高校生と教員が巻き込まれた雪崩の背景が徐々に明らかになっている。この事件では、山岳部に長年携わっているベテラン顧問の指導のもとで、8人の尊い命が失われた。熟練教師がこのような事故に「巻き込まれた」のであれば、弘法にも筆の誤りと言えるだろう。だが、現実には判断の誤りや装備の不備など様々な過失が指摘されている。そもそも、長年顧問をやっていたとしても、教師というだけで雪山のプロというわけではない。年長者だから信頼できるというわけではないのだ。


この記事では、リーダーに求められる資質について、自分なりの意見を述べていきたい。山岳部に限らず、子どもを指導するあらゆるリーダーについて考える。

 

 

栃木スキー場雪崩

2017年3月27日、栃木県那須町のスキー場で雪崩が発生し、ラッセル訓練をしていた栃木県内の高校の山岳部員7名と引率した教員1名が死亡した。亡くなったのは、強豪校の生徒とのことだ。今回の合宿について、主催者としては安全に自信があったようだが、過失も散見される。高校生の雪山登山を厳格に禁止しようとする声もあるが、それに対する批判もあるようだ。


複数のベテラン教員が引率していた

mainichi.jp


現代の雪山登山で必要とされている装備をつけていなかった

www.nikkei.com

 

老年の凡才より若年の天才

登山のような危険を伴うレジャーにおいて、指導者には年齢や経験の数ではなく、実力や指導力が求められる。つまり、どんなに年齢が高くても、キャリアが長くても、優秀であるとは限らないのだ。これは単に学歴や資格の有無の話ではない。採用担当者におかれては、実際の現場や模擬レッスンなどにおける実質的な判断が求められる。単に年齢や学歴があるだけで無能なリーダーが命に関わるアクティビティの指導にあたっていたらたまったものではない。年上だから、経歴があるから安心ということはあり得ない。リーダーとすべきなのは、知識や能力・指導力に長けた人なのである。

 

「大人ならなんでもできる」は間違い

一方で、指導なんて大人であれば誰にでもできるのではないかという反論が考えられる。子ども用通信教材の付録にだって、「おうちの人と一緒にやろう」という指示が書いてある。なるほど、大人と一緒にやれば安全という活動もあるかもしれない。だが、あれは大人であれば当然できるであろうことに関する責任を大人に委任しているだけである。例えば、子どもを持つ親で、コンロの使い方がわからないとか、包丁が怖くて使えないという人はあまりいないと思われる。そうした大人であれば安全に実行できることを大人に任せたり、大人の補助の元で子どもにやらせているのだろう。


ところが、登山となれば話は違う。人里、特に都市で生活している人にとって、登山は身近な経験ではない。毎日使うコンロや包丁と違い、大人なら当然トラブルに対処できるというわけではないのだ。残念ながら、それを理解できずに単独や軽装で登ってしまったり、救助ヘリをタクシーのように呼んでしまったりする人がいる。我々の多くは山の正しい登り方を知らないのだから、大人だから安全に山を登ることができるとか、子どもを安全に登山させられると思ってはいけないはずだ。

 

経験からくる慢心もある

ただし、経験を積んだベテランがいつも正しいとは限らない。体育会系の部活などで高齢の指導者が水分補給を怠ったり無理な運動をさせたりして、子どもを熱中症に罹らせるという話は未だによく聞く。自分の子どもの頃はそうだったとか、それが絶対的に正しい指導法だと思っているとかで続けているのだろう。これは長年やっているからこそ起こるエラーだと言える。


きちんとした指導者であれば、最新の科学に即した最新の指導法・トレーニング法を導入するはずだ。だが、ベテランの中には自分の勘であるとか、伝統的な方法に頼る人も多いので、そういう人は知識がなおざりになりやすい。自分こそが正しいと思い込んでいるケースもあり、生徒や部下の提案が無視されることもしばしばある。これは山岳部においても同じであろう。


子どもを確実に成長させるにはロジックに基づいた指導が必要なのであり、伝統に倣って今は効果がないとされる、あるいは逆効果とされる指導をすることはよくない。昔からよくないとされてきた方法をとるなら、なおさらだ。

 

年功序列でリーダーに昇格するケースもある

年功序列制により、他に年長者がいないということで自動的にリーダーになってしまうというケースも考えられる。別の言葉で言えば、年齢や経験年数だけで実力・指導力が伴っていないリーダーが誕生することもあるのだ。年功序列のみに基づく指導者(のリーダー)の選出は、力(や「指導している感*1」)で子ども(メンバー)を支配することになりかねない。年上の命令ならどんなに理不尽でも聞かなければならないという環境は、死と隣り合わせの雪山にあってはならないのだ。


逆に、指導力不足で命令が遂行できないとか、子ども(メンバー)をまとめられないということもありうる(特に、有能な指導者の引退などでサブリーダーが昇格するケース)。当然、完璧なリーダーというのはいないわけで、初めは誰でも苦労するだろう。しかし、人望なし・セオリーなしの人をリーダーにしてしまうのは、自殺行為だ。年上が無能な人ばかりなら、思い切って年下のリーダーを設けるべきである。

 

不適切な教材を選んではいけない

意味のない教材はあってはならない。つい先日話題になった「和菓子は道徳的でパン屋は道徳的ではない」問題からも分かる通り、教材にはそれぞれの目的がある。目的に基づいて練られた教材ならよいが、「これをこうするとそうなる気がする」というように、フィーリングで作られたものはよい教材とは言えない。それから、思考停止して可能なことを可能なだけやり進めるというのもよくない。例えば、グラウンドが使えないからといって、室内で筋トレばかりしていてはいけない。それでは鍛えられる能力が偏ってしまう。室内でできることは筋トレ以外にもあるはずだ。このように、何のために何をするのかをきちんと考えられる指導者が求められる。


今回はラッセルの訓練ということだったが、指導の目的は何だったのか、その目的を果たすためにそこでラッセルをすることは正しかったのか、などが問われることになるだろう。

 

「安全な危険」の必要性

ここで注意したいのは、雪山登山全般が悪いというわけではないことだ。以前取り上げた公園の遊具の話と同様に、安全性と意図された「安全な危険」があるならば、子どもに雪山を登らせることは結構である*2。しかし、「雪山で歩く練習をすれば◯◯力が身に付くに違いない」とか「雪山を歩くのは楽しい」という甘い認識があるのであれば、それは危険極まりない。雪山に登らせるにはそれによって果たされる目的が必要だし、楽しさには危険は付き物だ。その危険を死や後遺症の域にまで至らせないことは、指導者の責任の範疇である*3

 

 

分析や計画を怠ってはいけない

命の危険や怪我のリスクを避けるために必要なことは、綿密な分析と計画である。子どもの伸ばすべき部分は、一般論だけでは特定できない。持久力が足りない子もいれば、瞬発力に長けた子もいる。あるいは、チーム全体として何かが欠けているから勝てないのだということがあるかもしれないが、それも一般論として共通しているわけではない。伝統的な練習メニューや基礎練を繰り返すだけではいけないのだ。


何が欠けているから何をしなければならないということが考えられて、初めて効果的な練習ができる。その練習自体も効果的なメニューを考え、実践できて初めてパワーアップにつながる。これは個人の勉強などでも同じだ。こういったことを考えられる指導者が子どもを高みへと登らせてくれるのである。

 

できる限りの冒険を

このように、ベテランといえども信頼できるというわけではない。実力や指導力、科学的な知見や子どもを成長させるための論理、子どもの力を見極め、それを伸ばすために必要な指導を行う力があって初めて信頼できる指導者になれるのだ。


最後に、冒険は危険を冒すものである。大切なのは、子どもの安全を守るために必要以上に萎縮することではなく、命の安全を確保した上で、雪山の危険や雪山を安全に登るために必要なスキルを子どもに叩き込むことだ。ひとつも間違いを犯さずに大人になった子どもが道を踏み外したときと同じように、雪山の危険を知らずに大きな雪山に登った人にも壮絶な運命が待ち受けているに違いない。若いうちにできる限り冒険をしよう。

*1:わかりやすい例を出すと、数学の試験で成績の悪かった生徒に計算課題を出すことは指導になるかもしれないが、スポーツの紅白戦で負けたチームに腕立て伏せをさせることは指導している感を出しているだけである。せめて敗因に沿ったトレーニングをさせたい。そうでなければ、ただの体罰だ。

*2:つまり、雪山に登って危険を目の当たりにすることで、子どもたちは雪山とどう向き合うべきかについて学ぶことができる。だが、今回の雪崩は子どもを死に至らしめたわけで、学ぶ余地のないことだ。指に軽い火傷を負って火の危険を知るのとは、わけが違う。一方で、雪山を経験しないならば、いざ雪山に登ったときに危険に対処できない。安全性が確保された場所で胡座をかいていてもいけないのだ。まとめると、今回は雪の歩きにくさと正しい歩き方を学ぶ意義を実感する程度の講習が求められていたと思われる。

*3:プールで顔を水につける練習をするときのことを考えよう。この練習をするために、マリアナ海溝まで行く必要はあるだろうか? 否、その必要はない。最悪、洗面器でもできる。いずれ海に潜ることがあるかもしれないが、だからと言って水に顔もつけられない人を危険な場所に行かせる理由はない。せめて、学校のプール程度にとどめておくべきだ。